ショートの『ポル・ポト』は本当に決定版なのか(※日本語訳あり)(※※補足あり)

 先日、フィリップ・ショートの『ポル・ポト―ある悪夢の歴史』(白水社)について書いたが、その位置づけはやや訂正されるべきかもしれない。

 訳者の山形浩生さんは「本書は…これまでいくつかでているポル・ポトの評伝やクメール・ルージュ史に関する各種文献の追随を許さないものとなっている」と、訳者あとがきで書いている。

 しかし、本当にそうなのだろうか?

 興味を持って調べてみると、原著に対する書評を見つけることができた。

 書評を書いたのは歴史学教授のベン・キアナン(Ben Kiernan)。イェール大学ジェノサイド研究プログラム(→http://www.yale.edu/cgp/japanese/index.html)のディレクターで、カンボジア現代史研究を代表する一人である。
 ベン・キアナン氏の主な著書には『血と土―スパルタからダルフールに至るジェノサイドと皆殺しの世界史』(2007年)、『ポル・ポトはいかにして権力を握ったか―カンボジアにおける植民地主義ナショナリズム共産主義、1930-1975』(新版2004年)、『カンボジア―東部における虐殺』(1986年)、『ポル・ポト体制―クメール・ルージュカンボジアにおける人種・権力・ジェノサイド、1975-1979』(第3版2008年)、など(いずれも英語)がある。

 フィリップ・ショートの原著にはいくつかの版があり、書評の対象となっているのはイギリスで出版されたハードカバー版

Pol Pot: The History of a Nightmare

Pol Pot: The History of a Nightmare

である。

 書評の原文は
http://www.yale.edu/cgp/p.short_review.html
にある。(興味のある方はぜひお読みになることをお勧めいたします。)

 日本語訳は以下の通り。

『加害者の眼鏡で見た神秘的共産主義の野蛮な犯罪』

ベン・キアナン

 ポル・ポトが死んで彼の最後の同志たちが投降し、フィリップ・ショートは、クメール・ルージュ体制がカンボジアを支配したあの悪夢を説明しようとしている。フランスに根ざした英国人作家のショートは、クメール・ルージュの指導者たちを、彼らの学生時代、植民地プノンペンと首都パリにいた間から、武装反乱を経て1975年の勝利まで追っていく。ショートは、指導者たちが権力にあった血塗られた4年間を物語り、1998年のジャングルでのポル・ポトの死で締めくくる。ポル・ポトの仲間の生き残りたちはもうすぐカンボジアと国連の合同法廷に立たされるかもしれない。ショートはそれに言挙げするものである。ショートの本の強みも弱みも、大部分はフランス語で行われた、クメール・ルージュの指導者たちや関係者の最近の回想と、そしてクメール・ルージュ体制下の拷問・殺害についての囚人たちの「自白」の提示とにある。

 ショートは、クメール・ルージュの罪を、人道に対する野蛮な犯罪ではあるがジェノサイドについては「無実」とする。彼らが「国民的、民族的、人種的あるいは宗教的集団を絶滅させようと試みたわけではなかった」からである。ショートは1948年のジェノサイド条約第二条を引用しているけれども、ジェノサイドの定義を誤っている。正しくは、ジェノサイドとは「国民的、民族的、人種的あるいは宗教的な集団の全体または一部を殺す意図をもって」コミットする行動のことだ。ショートは、ポル・ポト体制が、カンボジアで多数を占める仏教僧共同体のかなりの部分と、ベトナム人や中国人やムスリムのような少数民族とに行ったジェノサイドの証拠を却下する。ポル・ポトの行った全てのムスリム共同体の暴力的「分散」に差別が含まれていたことを疑問視し、「アメリカで人種分離阻止のためにスクールバスを使うこと」になぞらえるのである。

 このような断言が、被害者の権利に対する国際的否認を引き延ばす助けとなる。ショートは、専門家による国連のグループが1999年に出した法的な報告書―それはクメール・ルージュの指導者たちがジェノサイドの責任を直視することを勧告しており、「カンボジアの人々に行ったことは条約の中で列挙されたほとんどすべてに該当する」との記述を含む―を無視する。ショートはカンボジア革命を「ホロコースト」と呼んでおり、そのイデオロギーは「生存圏」の中にも見いだされるものとしている。にもかかわらずショートは、ナチとの比較は「上っ面」で「役に立たない」と決めつけている。クメール・ルージュ奴隷国家を運営していたのであり、死の犠牲は「何より第一に過労と食料の欠乏と医療処置の欠如のため」だ、と言う。それによって、大量殺戮はキリング・フィールドの二流の人寄せ文句におとしめられてしまう。ショートは、国連が試算する170万人の大量死を却下し、犠牲者は150万人を下回ると疑い、しかしその証拠は示さない。15から20パーセントの農民が死んだという、現にある概算を無視しつつ、ショートは10パーセントでも「おそらく確実に過大評価」だとしている。ショートの言葉を借りれば、このことは「十分に恐ろしい」ことである。

 ショートが惨禍をこのように見積もっているのをみると、事実に重きを置いて歴史を書くのではなく、新奇な解釈を打ち出して歴史を書こうとする野望があるとわかる。彼は25年にわたるジェノサイドの文書証拠調査を気にも留めず、分析を人種本位で行うという最も安易な道に流れているようだ。ショートは、カンボジア人とベトナム人を「犬猿の仲の二つの国民」と見る。ベトナムは傲慢で、中国は比較的親切で、カンボジアは「中世的」というわけだ。ショートは、「ベトナム人は米を育て、クメール人は米が育つのを見て、ラオス人は米が育った噂を聞く」といった植民者の馬鹿話に「真実の核心」を見いだす。さらにショートは人を人種的に決めつける。ポル・ポトの父親は「教育が大切だということを」知っていたから「じゅうぶんに中国系の血筋」なのである。ポル・ポトの家族は否定しているのに。ショートは、カンボジアの「血ではなく行動をもとにした人種の同一性」と呼ぶものについて議論する。彼が「血」を重要な特質とみていることを匂わせながらである。

 ショートは、人種的枠組みで考えることによって、クメール・ルージュの政策―ポル・ポトは1952年に「原クメール人」と自称してさえいる―の中の民族差別を見過ごしている。ショートはその点を、1978年におけるポル・ポトの「5000万人のベトナム人を…殺せ」という呼びかけについてだけしぶしぶ認めている。しかしショートは責任をカンボジアの社会全体に拡散させる。そんな「ベトナム差別が…クメール人心理に響いた」そして「民族的自尊心に響いた」と主張することによってである。ポル・ポトがそれを取り上げたのは、「民族の文化が作った古来不変の見方」を除いては彼にとって「頼るべき他のものは何もない」と言ったときだけだ。ショートの見方では、ポル・ポト共産主義イデオロギーを、ジェノサイド的差別に結びつけたのではなく、彼の「非論理的な…文化遺産」―そこには観念論や「個人の破壊」とともにある仏教が含まれる―に結びつけたのである。ショートは書く。「クメールの思考の中では、基本の二分法はユダヤキリスト教社会のように善と悪ではない」しかし「村と森」である、と。ショートは責任を、クメール・ルージュ「とともに活動した」「仏教僧を含む何百万ものカンボジア人」に分け持たせる。無分別にも、彼はカンボジア人がいかなる重要な反乱に立ち上がったこともないとまで否定している。

 分析にエキゾチックな本質主義を採用することによって、ショートの手法は、幅広い社会集団をクメール・ルージュの秘密決定―それらの社会集団はこの決定によって犠牲になった―と関連づけ、ポル・ポトの指導による行動を、カンボジアポル・ポト以前やポル・ポト以後の体制と「同様な」犯罪の範疇に入れて常態化する無謀なものになっている。要するにショートは、1960年代におけるシアヌーク体制の暴力に対するクメール・ルージュの不平不満を誇張しているのだ。クメール・ルージュの「共産主義に対する神秘的なアプローチ」は中国やヨーロッパに先例がないという彼の指摘は部分的には正しい。しかしそんな先例はカンボジアにもないのである。フランス語を話す多数の情報提供者と同様に、ショートは「フランス人によって伝えられた解放的・西洋的な価値と、カンボジアの伝統的で内面化された不動の保守主義」との違いを強調する。彼はベトナム共産主義抵抗運動に対する植民地時代の評価を蒸し返す。「一つの植民地主義が…それとは別の植民地主義を追い払う」。初期のクメール共産主義化についてのショートの記述は、フランス語を話す元学生の記憶やフランスとベトナムの公文書に根拠を持っている。しかし地方のクメール人関係者にも、カンボジア国家の公文書にも根拠を持っていない。もしショートがこの点について意見を求められたら、クメール・ルージュの中国に対する米の輸出―5000トン船の船籍書類の中に1978年8月14日付けの商務省の送り状がある―を否定しようとはしないだろう。そのかわりに、米の飢餓輸出についての報告書は「ベトナム人の宣伝者」がでっち上げたものだと主張している。ところが、そうした報告はカンボジア人の港湾労働者やクメール・ルージュ幹部や農民からも出てきているのである。

 ショートはクメール語が読めない。そしてカンボジア人被害者を遠ざけている。ショートの、発音表記における間違った助言からクメール・ルージュの消息筋に置いた信頼に至るまでを勘案すれば、移送について彼が使った証拠が精査の上に成り立っているとすることはできない。あまりにも多くの事実の間違いを列挙できるが、現存する文書証拠に彼が検証不能との特権を与えて無視することのほうがもっと多い。たとえばショートは、ポル・ポトが1954年に反仏カンボジア共産部隊―300人強の兵士がカンボジア人の指揮下にあった―とともに最初に経験したことを報告している。ショートは、ポル・ポトが「80パーセント以上の残りの構成員がベトナム出身だったことを失望とともに記録した」と書いている。その30年後の談話からみて、情報源はどうやらポル・ポトらしい。しかし同時代の報告は、1949年における部隊―22個のクメール人小隊と8個のベトナム人小隊からなる―の発展を述べている。部隊のクメール人は増え続けた。あるフランスの将軍が1954年までの時期に報告しているところによれば、カンボジア共産主義者に率いられた軍隊は「大部分がクメール人だ」。5分の4がベトナム人の部隊とはまず尋常ではなかろう。いまやポル・ポトの反対意見に取り合う理由もない。ひいては当時のポル・ポトの見解のほのめかしならなおさらである。ショートはそれを、より重要な証拠に照らして吟味することなく、事実として提示している。もしもポル・ポトの―人種差別ではない―ナショナリズムが働いていたとすれば、ベトナム人部隊のクメール人司令官は彼の「胸くそ悪さ」に憤慨していただろうが、その際にショートはなぜそうなるのかを問うたりはしない。

 ショートは、「カンボジアの悪夢の物語は…カンボジア人が創り上げた立場に由来しているのであり、むしろその犠牲者にすぎない」と述べている。しかし、その二つを調和させることができない。本書は加害者の目を通して悲劇の原因を明かすための事例ではある。ショートは、加害者が書き換えた歴史の諸々を採用することによって、加害者のジェノサイドの証拠と人的犠牲についての合意を却下することによって、その裁判を引き延ばしているのだ。

(初出はタイムズ紙Higher Education Supplement、2005年2月25日付け、ロンドン発行。)

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【補足】訳文の見直しを行いました。(2014.9.10)