米谷匡史「戦時期日本の社会思想」(『思想』882号、1997年12月)の要約

以下、米谷匡史「戦時期日本の社会思想」を要約したものを上げることにしました。やや乱暴な要約になったかも知れません。ご意見などなさりたい場合はぜひとも元論文(大きな図書館に雑誌のバックナンバーがあると思います)に当たってからにしてくださると助かります。


一 はじめに
 アジア・太平洋戦争当時、戦争と総動員体制が意図せずしてアジア解放と国内変革を導く可能性があった。

二 「現代化」の時代―世界秩序の転換
 1930年代は、アジアにとって、植民地化の進む「近代」から、帝国主義的世界秩序が解体・再編される「現代」に至る時代だった。戦時期日本の社会思想は、アジアと日本と西洋の関係が問い直される場だった。

三 日中開戦前夜の文脈―「中国統一化」問題と「国民生活安定」問題
(1) 「中国統一化」問題
 矢内原忠雄は国民政府との連携を唱えた。この提言の採用も模索されたが、実を結ばなかった。

(2) 「国民生活安定」問題
 1937年の総選挙で社会大衆党は第三党に躍進した。これはファシズムに行くか、社会主義に向かうか双方の可能性を持っていた。日中戦争の勃発によって、同党は挙国一致体制に参加することとなった。

四 日中開戦と〈戦時挙国一致体制〉―〈戦時変革〉の発動
 日中戦争後の社会大衆党は、戦時体制構築における社会政策の強化等により、資本主義の解体を促進しようとした。

五 東亜協同体論と日本の変革―〈戦時変革〉の展開
 日中戦争が長期化する中、日中連帯とアジア解放を目指す理念として、三木清の東亜協同体論や石原莞爾の東亜連盟論が現れた。三木は日中双方がナショナリズムを超えて東亜協同体を作ることを訴え、その前提として日本資本主義の変革が必要であるとした。

六 二重の革新とヘゲモニー抗争
 東亜協同体論の担い手は実質的に昭和研究会と社会大衆党だった。彼らが国内変革を目指した運動は、1938年の近衛新党運動であり1940年の新体制運動だった。笠信太郎の日本経済再編論や大河内一男の戦時社会政策論は、国内変革のプログラムとなるはずだった。しかし1938年にも1940年にも、革新左派がヘゲモニーを握ることはできなかった。

七 大東亜共栄圏論の行方
 1940年から1941年にかけて、「日本ファシズム」体制が確立したが、それは激しい相剋の帰結だった。大河内一男は「大東亜共栄圏の経済構造」を書き、アジアの植民地性の解消と日本資本主義の修正を目指した。尾崎秀美は、〈戦時挙国一致体制〉による上からの変革を試み、それを国内再組織運動とかみあわせることによる容共政権の成立、中国共産党ソ連との連携を展望したが、やがてゾルゲ事件で死刑となる。他にも同様な革新左派の試みは散発的に行われたが、しだいに封殺されていった。
 アジア・太平洋戦争の戦局悪化は、ビルマ・フィリピンの独立など、まがりなりにも戦争の大義名分を果たさざるをえなくした。それは連合国の、朝鮮独立や台湾・満州等の中国返還を取り決めたカイロ宣言などを引き出した。東南アジア諸民族は、日本帝国主義の膨張と退潮を利用しつつ脱植民地化を達成した。

八 むすび
 戦後、東京裁判でアジア解放という戦争目的は否認され、戦時中に問われた侵略と解放の二重性の問題は封印された。戦時下の国家革新の系譜は戦後も引き継がれた(片山・芦田内閣が典型)が、冷戦期になってその基盤を失った。三木清や尾崎秀美の東亜協同体論をはじめとする諸思想は、侵略と分断の中、あえて国際的連帯と国内の革新を試みるものだった。今こそその可能性が再評価されねばならない。