大日本帝国をどうとらえるか

 大日本帝国は戦争に負けたことで終わって、日本国になった。これは歓迎すべきことでしょう。

 と同時に、国土や人口やインフラストラクチャーといった「遺産」も受け継いだわけで、当然、侵略や植民地支配に伴う「負の遺産」もある。冷戦後の日本は、その「負の遺産」についての精算をせまられており、そのあたり日本のマジョリティーにとってはなかなか見たくないのだろうなと思います。例の「新しい歴史教科書をつくる会」は、「民衆の戦争責任論」に対する「大衆的」(?)否認という意味合いがあるように思われます。近年の中国dis、韓国disの本の氾濫もそういうことでしょう。(disというのはヒップホップ用語で、disrespectの略。「罵倒する」というくらいの意味。)

 伊藤博文はそれなりによく考えて大日本帝国憲法を作ったのでしょう。軍の指揮権を議会でなく元老が握る仕組みを作ったつもりが、昭和に入って、当の軍が国家を牛耳るようになったのは歴史の皮肉とでもいうべきでしょうか。

 明治憲法体制について、他にどのような選択肢があり得たでしょうか。たとえば明治十四年の政変が起こらず大隈重信が政府に残り、彼のイニシアティブで憲法ができていれば、イギリスをモデルとした交詢社憲法案がたたき台となったはずで、それならば文民統制ももっと利いていたはずで…などと歴史のイフをあれこれ言ってもせんないことですが…。

 「大日本帝国から日本国への移行」に関して、GHQによる日本の占領とは何だったのか、問われる必要があるように思います。たとえば、象徴的な話をいたしますと、戦後まもなくの国語のカリキュラムは「言語」と「文学」から成り立っていました。「言語」というのは今でいうメディア・リテラシーを教えるものでした。こうした水脈は、日本占領の終わりとともにとだえ、「文学」を中心とした「国語」になって現在に至っています。