近過去の歴史について―小熊英二×高橋源一郎の対談より

 ツイッターでも話題の、小熊英二×高橋源一郎「1968から2010へ」(『文學界』2010年5月号、所収)を読んだ。感想がふつふつと湧いてきたので書きつけておく。

 冒頭、小熊英二は『1968』を「現在の二十歳ぐらいの人たちに読んでもらいたい」と言うが本当にそうだろうか?(若い人向けにしては値段が張るような気が。ほんとのほんとにそうだったら、『日本という国』(理論社)並みの値段とは言わないまでも、例えばソフトカバーにするなどして極力値段を抑えそうなものだが。)
 文字資料について。当時書かれたものは「当時のメンタリティーをそのまま表現していますから、かえって当事者にとって意外なものが出てきたりなんかする」それはそうだ。要参照:田中美津さんによる書評。
 以下、流れに沿ってコメントを交えつつ紹介していこう。

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高橋源一郎「たとえば1968年について、これだけのボリュームであの時代を再現した当事者がいるか」
それはそうだ。
 
同「違う入射角から見える風景は違う、ということも想像させてくれる」
だね。機動隊の人とか、日大の体育会の人とか、東大のエスタブリッシュメント候補生とかね。
 それにしても、小熊英二にとって大岡昇平の『レイテ戦記』が理想像の一つなのか…。(読む必要がある)
 
高橋源一郎「歴史というものは当事者によって書かれるべきではないな、と思いました。というか、当事者は書けないんだ」
確かに、たとえば東大闘争関係の本の中には、良いものもあるのだろうが…言わぬが花のものもあったりする。
 
同「信夫清三郎さんの『安保闘争史』…にはストーリーがない」
なるほど…。
 
小熊英二「二十代の私に対して手紙を書きたかった」
これは直球だ。
 
同「私の年代は、吉本隆明…に最初に接したのが『「反核」異論』」
読んだなー。あの本の中の話かどうかは記憶にないが、1981年、ポーランドの自主管理労組「連帯」に対してヤルゼルスキ首相が戒厳令を敷いた頃、吉本さんは、人民によるリコール可能性のない体制はだめだという意味のことを言った。あれにはかなりの共感を覚えたものだった。(とはいえ吉本さんをトータルでどう考えるかは簡単ではない。)
 
小熊英二「日本がこういう社会段階になったら、政治をロマン化して語るというのはもう無理があります」
だね。ブログ界隈ではそうでもなくいまだ健在という印象があるが、それはブログを書く人がやや観念的になりがちだからだろうな。
 
高橋源一郎「六八年は…非政治の季節でもあった。…戦後文学の…人たちは、政治的な言語と非政治的な言語の混交をある種情熱を込めて推進してきた…。七〇年代ぐらいまでは極めて密接な…ある種の共同戦線を張って、一つの言語野を形成している。とすると、この本〔『1968』〕で書かれている、アイデンティティを語るために…政治的言語を選ぶという図式は…致命的な違いがある」
そういう気もする。当事者の見解はどうなんだろう?
 
同「近代文学者達は、政治的バイアスがかかった非政治的言語を一気に発散した。実は政治的言語が膨張する時期には、非政治的言語も同時に膨張する。言語資源全体が膨らんでいくことによって政治的言語の孤立を防ぎうるんじゃないか」
これは唸らされる。
 
小熊英二「二〇〇五、六年ぐらいから急速に貧困だの格差だの若年雇用だのが言われるようになってきて、また新しいステージに突入してしまった」
これはそうかもしれない。
 
同「『七〇年パラダイム』という言い方自体が…書いている途中で思いついて言った」
要参照:スガ秀実『1968年』(ちくま新書)。あれはまさに2006年に出た本なわけで。
 
「豊かなマジョリティが貧しいマイノリティを搾取しているという…パラダイムが二〇〇六年ぐらいから通用しなくなった。…マジョリティは恵まれているから問題がないんだという形で処理してきた問題が、ここに来て噴き出してしまった」
これは正面から向き合うべき問題である。
 
同「九二年にその経済成長が止まり、九四年に脱工業社会化した」
九二年はわかる。九四年というのはたぶんインターネット商用化のことかもしれない。
 
高橋源一郎「貧しい、少数派の日本人が豊かなマイノリティを攻撃するという構図になってきた」

小熊英二「…実際に豊かなのかどうかは別問題として、でも、ナチスが出てきたときってそうですからね」
(!)
 
同「個別のアイデンティティに閉じこもって利害を言っていてもしょうがないんじゃないんでしょうか。…生きにくい人は「生きづらい」という形で外に訴えかけていくしか」「食えることは食えているが、剥奪感が大きい」
(!)
 
高橋源一郎「『1968』という本の正しい読み方は、小熊さんの最後の問題提起―新しいパラダイムは何でありうるのかという言い方でしたが―、その提起について考えることではないか」
その通りである。
 
同「五〇年代は…政治的言説が、公式主義的であったりして、今よりはるかに強固で権威もあったけれども、その強さ自体はある種の面白みを持って読むことができます。政治的な言語に拮抗するものとしての非政治的言語という視点から書けるなあということは、この本〔『1968』〕を読んで思いました」
これはすごい。『群像』をさかのぼって読む必要がある。高橋源一郎おそるべし。

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 結論としては…本、とりわけ『1968』のような本は、ちゃんと読んでから論ずるようにしましょうと。願わくは、どうこう言うよりも、別の切り口で歴史を書くなり何らかの展望を打ち出すなりしましょうと。(ネット上ならほぼタダでもあるし。)