歯切れが良くないのはやむをえないのだろうな。(※やや書き足しました。)

水谷三公丸山真男―ある時代の肖像』(ちくま新書、2004年)を読んだ。

著者は、本書の全体を通じて、丸山真男共産主義に対するスタンスが甘かったのではないかということを言いたいようである。本書の書かれた時点の目で見れば、大筋、その通りと言わざるをえない。(とはいえ、21世紀の日本で共産主義を批判することは、赤子の手をひねるように簡単なことである。そのために要する勇気は、ある種の環境にいる場合を除いて、さほど多くはないだろう。むろんその必要がゼロになったわけではなく、思想史的には、より根本的な批判が必要でさえある。問題は、共産主義への批判をどこにどう着地させるかだ。
著者の言い回しは、ぼやき節ともいうべき独特のものである。人によっては、読みながら引っかかることもあるだろう。(というか私は引っかかった。読み物も飲み物も、さっぱりしたものが好きなのである。)
しかし、そうした言い回しが選ばれたことには、何らかの必然性があったように思える。過去のしがらみ、残る複雑な感情、その他を考えるならば、歯切れのよい文体は採用されえなかった。一読者としては惜しいと思うが、やむをえないのだろう。
個別具体的な論点については興味深いものもいくつかある。たとえば天皇制の問題や叙勲の問題、あるいは公職追放の問題。気が向いたら、あらためて取り上げることにする。
最後に、本書はどの程度お勧めなのかを言っておく。第一章をパラパラ読んでみて、いけると思った人が読めばいいのではないかと思う。