ドイツにおけるファシズム台頭の歴史に学べ―モムゼン『ヴァイマール共和国史』

ハンス・モムゼン(著)、関口宏道(訳)『ヴァイマール共和国史―民主主義の崩壊とナチスの台頭』(水声社、2001年)
 本書は、文字通り、ヴァイマール共和国第一次大戦後からナチスに乗っ取られるまでドイツに存在した、世界で最も進んでいるとされた憲法を持つ国家―の歴史を描いたものである。

 そのようなヴァイマール共和国がなぜナチスに乗っ取られたのかという問題に、主として、どの勢力にどんな選択肢があり得たかという点からアプローチした本である。

 これは4月初頭のノートブックを元にしてまとめたものだが、昨今のきな臭い政治的情勢を考えるヒントとして資することを考え、新しい日記欄に書くことにする。以下、本書の内容に入っていく。本書からの引用は引用符で明示する。

 第一次大戦後、キール軍港の水兵叛乱は、ほとんど全てのドイツの大都市に飛び火した。自然発生的に結成された兵士・労働者評議会〔レーテ〕によって、政治権力の掌握が行われた。“革命は不可避的となった。”

 “人民代表委員会政府はエーベルトヴァイマール共和国初代大統領〕という人物のなかに、いわば二重の正統性を有していた”。政府はほとんど解決不可能に近い諸問題と取り組んだ。具体的には、“動員解除、食料品確保、東方問題の解決、休戦交渉、経済生活の再開、財政再建であった。”

 “エーベルトは…洞察力と効率の良さを示した。”が、“決定的問題で戦術的柔軟性が欠如していた。”これが、1918年12月16日のベルリンにおける、レーテ全国大会での独立社会民主党内穏健派の敗北につながることになる。

 (1930年)“ブルジョア右翼政党の再編への萌芽は、大衆運動としてのナチ党の突破により潰された。…ナチ党は、反共和主義の有権者にとっては、既存の体制に対する他よりも首尾一貫した選択肢であった。なぜなら、ナチ党の宣伝は、…政治的方向を選択することと、経済体制問題では明確に態度を表明することを回避したからであった。”

 “ブルジョア政党や社会主義政党と異なり、ナチ党は、その使用できる全勢力を政治的宣伝に費やした。”具体的には、集会、野外演奏会、突撃隊の行進、共同の教会詣で、手紙作戦、絶えざるパンフレットの配布―そしてゲッベルスが最も得意とした宣伝映画。

 宣伝は様々な職業グループに対して別々に行われた。“党は早い時期から、人種的なユダヤ主義をあまりにも強調することは、…同調者の基盤であったブルジョア階級の有権者を驚愕させるということに気がついており…いわゆるユダヤ人の経済支配を論難することに活動を限定した。”

 “ナチ党は、他のどの政党よりも…階層を超えた運動となることに成功した。” “党はいかなる時点でも、その支援者を積極的な綱領に結びつけておくことはできなかった。…自由な選挙という条件下では、絶対多数を獲得することを期待することはできなかった。”

 (1933年に、ヒトラーの)“敵対者たちは敢えてナチ党を公然たる選挙戦へと引き込むことをしなかった。その選挙戦は、事情が同じであったら、〔ナチ党の〕壊滅的な敗北で終わったであろう。”

 (1931年〜1932の時点で)“失業が依然として自己責任であり、社会的汚点であるとみなされる社会”では、“大都市の窮状は…想像を絶するものがあった。「どんな仕事でもします」という看板を持って街頭を行く絶望した大衆、…わずかの支払いで時刻刻みで寝床を借りる大衆、…都市の暖房施設に逗留する大衆、…プロレタリアの酒場で、アルコールを飲む人びとを羨望の念をもってじっと見つめる大衆、富者のゴミ箱を引っかき回して食物を漁る大衆。”失業した青少年に対しては、共産党ナチスが受け皿となった。ナチスの突撃隊に入れば、食えるしねぐらも確保できるのである。

 (1932年頃)ヒトラーを手なずけられると思いこんでいた「保守」政治家たち。“極端に政治的方向性を失った場合や、対立関係の倒錯が見られる段階において、建設的な目標のために左右の抗議する有権者を取り戻すために不可欠かつ十分な個人的魅力を備えた強力な敵対者が、ヒトラーの他にいなかったことは、ここ数ヶ月の悲劇のひとつであった。実際に、選挙戦はファシスト独裁権威主義的独裁下の二者択一をめぐって、ヒトラーとフォン・パーペンとの間で戦われた。”

 このように本書は現代の政治を考える上でも重要な著作であるが、惜しむらくは、序文で触れられている「巻末の参考文献」が収録されていないことである。ここは何らかの手段―たとえば原書に当たること―で補うのがよいかもしれない。