極東ブログさんへの16の質問など(※この件のやりとり纏め)

■ロバート・スペクター『アマゾン・ドット・コム』(日経BP社)[bk1amazon]を読む。山形浩生さんの解説が実に親切である。何章を読めばいいか、読むときどこに気をつけて読めばいいかが懇切丁寧に書いてある。本の解説はかくあるべしと思った。
極東ブログさんへの16の質問(注:この件に関する3日分のやりとりをまとめ、finalventさんの書き込み内容を赤い色で表示しております。)
遅ればせながら、小熊英二と太田朝敷に関する補足(↓内容は以下に引用、赤い色で表示)


 ”「結局〜皇民化の推進者」といった一方的な裁断ではなく、彼の言説の意図、効果、限界などを、距離を取りつつ客観的に位置づける” とmorimori_68さんがご指摘されるのはわかります。小熊英二についてその言及が妥当であるとも思います。ただ、私は2点の問題を感じているのです。
 1つ目は、ポストコロニアル論やカルチュラル・スタディーズにアクチュアリティがないことです。逆にそれがアクチュアリティ乃至状況への知識人の言及に適用されるとき、結局旧来の左翼思想に実質収斂してしまう。というのは、おそらくその背後に結局のところユーマニズムを内包しているからではないか。別の言い方をすれば、人間の終焉、ユマニテの生成・終焉過程としての近代化の発現として植民地化を見ていない、かつ、植民地化として現実のアクチュアリティに連結してみせるが、その支柱となるべき帝国主義論が完成していない。この点、英国のニューレフトのように帝国主義から植民地主義マルクス的な世界史の動向の正統な一貫として捕らえることができない。これは、多分に、日本やフランスなどの知識人が、知識人階層として結局のところそのナショナルな国家システムに保護されているためだろうと思います。この点は端的に言えば、日本にはラジカリティがないのです。吉本隆明が60年代安保を支援したのは思想の内在ではなく、ラジカリティという思想だった点が日本の知識人は十分に問い直されていません。
 2点目は、「一方的な裁断ではなく、彼の言説の意図、効果、限界などを、距離を取りつつ客観的に位置づける」というときの論者のスタンスはどのように理論構築されているかが、曖昧だということです。この問題は、戦後のヴェーバーの社会科学論、古いところではカール・レービットなどによってかなり深化されていたはずなのですが、結局のところ、日本を含め、80年代あたりのどこかでなにかの屈曲があったように思われます。ソーカル事件でフランス現代思想が実は修辞ではなかったかというプラグマティックな批判がアメリカ思想側からでる、また実質クーンに連動したドイツのフィアーベントの科学批判などもどこかで否定のための否定となり、結果、フランス現代思想が思想による思想のシミュレーションになってしまう(例えば、コージェブは優秀なヘーゲル学者でもあるが、ヘーゲル=コージェブというのが前提となりデリダの議論が通ってしまうのはごくフランスのローカルな家のご事情)。その屈曲のなかで社会学の科学性が十分にマックス・ウェーバー時代の前提すら考慮されなくなってしまった。端的な話、我々という日本人の知識人が帝国主義者の正統嫡子であるということをポストコロニアル論やカルチュラル・スタディーズなどは弁罪的な内容で隠し、その上で「客観」を仮設することになってしまう(この点で、フランスの知識人におけるアルジェリア問題など最近は日本側では考慮されていないように見えます)。乱暴な議論をすれば、本土人という意味で我々に沖縄・台湾を客観として論じる資格などないというのが巧妙に「客観」に隠蔽される結果、別の「アジアなるもの」「アジア諸国なるもの」というのが日本に対立して出現してしまう。結局、日本の知の状況では、ポストコロニアル論やカルチュラル・スタディーズなどは、そのスタンスの甘さから批判されるべき「日本のナショナリティ」が前提に回帰されてしまうのです。正確に言えば、カルチュラル・スタディーズの議論は、それを解体するはずなので、こうした私の言及がお笑いに聞こえるかもしれません。しかし、問題は、社会学理論の装置の性質ではなく、我々の思想というアクチュアリィなのです。
 小熊英二は、ちょっと皮肉な言い方をすればお利口さんなので、そのあたりの学会(業界)の動向や装置の設定、そしてアクチュアリティへの距離など実にウェルバランスに出来ています。もうちょっと皮肉な言い方をすれば、アメリカ人研究者の博士論文的なスタンスです。が、そこで欠落されるのは、国家性のない侵略という現象とでもいうべき、実際の歴史の状況です。単純な日本の戦後史観では「日本が(主語)アジアを(目的語)侵略した」という命題から日本やアジアとされる国家ないし民族が固定的に実体化されます。しかし、実際の歴史の展開は、あえていえば、アジアの部位が部分的に日本になることで日本化という現象が起こり、それが西欧の侵略の様相を呈したということです。単純な例でいえば、日本の戦犯とされた朝鮮人や台湾人(これはもっと複雑な問題がありますが)などは、侵略の主体に回されてしまいます。
 話がめんどくさくなりましたが、植民地化というのはジオポリティックな現象でなく、スポラディックな発酵的な現象だった、だからこそ、そのアクチュアリティの側面では急進的中核性が求められ、それが日本に課せられたと私は見ています。そして、その課せられるべき日本が実はオーバーロードであることから、偽装された急進的中核として石原莞爾などの満州国の理念が出てくる。
 そしてこの運動は結局のところ、日本の敗戦後も共産主義の形で歴史運動だけは継続していた。ちょっと浅薄で皮肉な言い方をしますが、アジアの赤化は、大衆の側にとって、ちょうど日本の植民地化と同じような現象として実現したのは、もともと同じ現象の一貫だったのではないかと私は考えるのです。
 単純な話にしすぎていますが、日本敗戦後のアジアの共産化の状況を日本の帝国侵略と同じなめらかな現象と見て、現代の日本アジアを位置づけるといった視点は小熊英二にはありません。もちろん、そんな議論は妄想というかもしれませんが、現象のもつ説得性があれば考慮すべきであるし、小熊英二の装置にはそうした問題を扱うシカケが存在していません。私の思索の誤りの可能性を明示化するために、逆にちょっときつい言いかたをすれば、小熊英二の議論は発展性がありません。”
(引用終わり)
を読みました。率直に言って非常に難解でした。疑問に思った点を箇条書きにしますので、よろしければお答え下さい。(*追記:finalventさん、回答ありがとうございました。読みやすくするため、finalventさんの回答をカッコ内の赤い色で示し、それを受けての私のコメントをさらに矢印で示しました。)(**さらに追記:finalventさん、回答ありがとうございました。読みやすくするため、finalventさんの再回答(と思われるものを含む)をカッコ内の赤い色で示し、それを受けての私のコメントをさらに矢印で示しました。
  1. ユマニテの生成・終焉過程としての近代化の発現として植民地化を見」るとおっしゃいますが、これはドグマではないですか? ドグマでないとすれば、その根拠は?

        ↓

    なぜドグマなのですか?
        ↓

    反証不可能だからです。

        ↓
    反証不可能性はポパーによる科学性の議論でこの文脈には沿いません。
        ↓

    私は沿っていると思います。



  2. 帝国主義論が完成していない」とおっしゃいますが、何をもって帝国主義論の完成とするのですか?

        ↓

    まずフィルファーディングとカウツキーの統合そして現在の国際金融の動向を十分に説明しえることをもって完成
        ↓

    了解しました。



  3. 植民地主義を‥‥世界史の動向の正統な一貫としてとらえる」とおっしゃいますが、そういう「英国のニューレフト」とは誰のことですか?

        ↓

    →”New Left Review”特にWarren.B
        ↓

    了解しました。



  4. 「日本やフランスなどの知識人が‥‥保護されている」とおっしゃいますが、イギリスの知識人は保護されていないんですか?

        ↓

    ご質問の文脈を了解しませんでした。
        ↓

    質問しなおすと、「日本やフランスなどの知識人が、知識人階層として結局のところナショナルな国家システムに保護されている」とおっしゃいますが、"New Left Review"に書いているようなイギリスの知識人は国家システムに保護されていないんですか? ということです。

        ↓

    問題の意図が理解できませんでした。
        ↓

    それは残念です。



  5. 「論者のスタンスは‥‥曖昧」とおっしゃいますが、著者の小熊さんに聞いてみたらいいのではないかと思うんですがいかがですか?

        ↓

    ご質問ではないと判断しました。
        ↓

    「論者のスタンスは‥‥曖昧」と言い切れるほど自信がおありなら、反駁書を出すなり小熊氏本人にといただすなりなさってはいかがですか、という意味です。

        ↓

    私がなぜ小熊本人に問いたださなくてならないのかという問いかけは理解できませんでした。私は小熊の議論に疑問をいだいているわけでもなく、ある意味で批評をしているのです。
        ↓

    小熊の本は数万冊売れていますが、finalventさんの批評は、失礼ながら数十人か、せいぜい数百人が流し読みしているだけではないでしょうか。もしご自分の批評に自信がおありなら本にして出版されてはいかがでしょうか。



  6. 「80年代あたりのどこかで何かの屈曲が‥‥ソーカル事件で‥‥」とおっしゃいますが、つながりがよくわかりません。

        ↓

    回答の前提となるソーカル事件はご存じですか。
        ↓

    『知の欺瞞』を読んで知っています。その上で尋ねています。

        ↓

    「つながり」とは何と何のつながりを意味されていますか?
        ↓

    「日本を含め、80年代あたりのどこかでなにかの屈曲があったように思われます。ソーカル事件でフランス現代思想が実は修辞ではなかったかというプラグマティックな批判がアメリカ思想側からでる、また実質クーンに連動したドイツのフィアーベントの科学批判などもどこかで否定のための否定となり、結果、フランス現代思想が思想による思想のシミュレーションになってしまう(例えば、コージェブは優秀なヘーゲル学者でもあるが、ヘーゲル=コージェブというのが前提となりデリダの議論が通ってしまうのはごくフランスのローカルな家のご事情)。その屈曲のなかで社会学の科学性が十分にマックス・ウェーバー時代の前提すら考慮されなくなってしまった。」という箇所の文脈が全体としてよくわからないのです。



  7. 社会学の科学性が‥‥考慮されなくなってしまった」とおっしゃいますが、この問題も小熊さんに聞いてみたらいかがですか?

        ↓

    ご質問ではないと判断しました。
        ↓

    社会学の科学性が‥‥考慮されなくなってしまった」と言い切れるほど自信がおありなら、反駁書を出すなり小熊氏本人にといただすなりなさってはいかがですか、という意味です。

        ↓

    私がなぜ小熊本人に問いたださなくてならないのかという問いかけは理解できませんでした。私は小熊の議論に疑問をいだいているわけでもなく、ある意味で批評をしているのです。
        ↓

    小熊の本は数万冊売れていますが、finalventさんの批評は、失礼ながら数十人か、せいぜい数百人が流し読みしているだけではないでしょうか。もしご自分の批評に自信がおありなら本にして出版されてはいかがでしょうか。



  8. 「本土人という意味で我々に沖縄・台湾を客観として論じる資格などない」とおっしゃいますが、その論理を突き詰めれば、”本土人”は”沖縄人”や”台湾人”に対して、責任を感じて恥じ入るか、同情するか、自分には関係ないと議論を避けるか、「日本は悪くなかった」と開き直るか、くらいしか選択肢がなくなるのではないですか?

        ↓

    その選択肢に限定される理由を了解しません。
        ↓

    では他にどんな選択肢がありますか?

        ↓

    例「同胞のアジア人として近代化を進める」
        ↓

    それだと、「本土人という意味で我々に沖縄・台湾を客観として論じる資格などない」という当初の言明と矛盾をきたすのではありませんか?




  9. 「国家性のない侵略」とおっしゃいますが、何のことだかさっぱりわかりません。具体例を挙げていただけませんか?

        ↓

    特に「琉球への日本の侵略」という命題。なぜなら琉球という国家性は否定されている。
        ↓

    小熊英二と太田朝敷に関する補足では、「国家性のない侵略とでもいうべき実際の歴史の状況です」とあります。これは「琉球への日本の侵略」であるとは受け取れませんでした。

        ↓

    論点が噛み合っていないように思われます。
        ↓

    私もそう思います。



  10. 「アジアの部位が部分的に日本になることで日本化という現象が起こり」とおっしゃいますが、そうさせたのは、「同化政策」等の日本の植民地経営そのものではないのですか?

        ↓

    そう思いません。台湾の状況を参照のこと。
        ↓

    調べてみたいので、よろしければ文献なりサイトなりをご教示ください。

        ↓

    伊藤潔著「台湾」中公新書
        ↓

    ありがとうございました。



  11. 「スポラディック」というのはどういう意味ですか?

        ↓

    sporadicで英和辞書をあたってください。
        ↓
        
    了解しました。



  12. (植民地化の)「アクチュアリティの側面では急進的中核性が求められ、それが日本に課せられた」とおっしゃいますが、”中核性を求めた主体”を曖昧にする議論ではないですか?

        ↓

    そう思いません。満州国関東軍主導であって日本国家主導ではありません。
        ↓

    関東軍は日本国家の一部ではないのですか?

        ↓

    関東軍は政府の統率の外部にありました。
        ↓

    関東軍が政府の統率外にあったとしても、対外的には、関東軍の行動は日本国家の行動とみなされます。たとえ話をしましょう。雪印食品の中毒事件で、「担当部署はトップの統率の外部にあったので‥‥」という言い方を雪印食品の人間がしたとしましょう。これは通用しますか? 私は通用しないと思いますがいかがでしょうか。(*)

    (*)この段落では、後ほど社名についての書き足しを行った。


  13. (植民地化の)「運動は‥‥共産主義の形で歴史運動だけは継続していた」とおっしゃいますが、歴史運動というのは奇妙な言い方、もっとはっきり言ってしまえば観念遊戯ではないですか?

        ↓

    歴史に運動はないのですか? この質問は無意味です。
        ↓

    植民地化は運動です。共産化も運動です。しかし、その二つをくっつけるのは、牛の胴に馬の首をくっつけるような奇怪さを感じます。

        ↓

    チベットはまさに帝国侵略を受けています。牛の胴にちょっと変わった牛の首がついているだけです。
        ↓

    そういう見解がありうるということは了解しました。



  14. 「アジアの赤化は‥‥(植民地化と)‥‥‥同じ現象の一貫だった」とおっしゃいますが、なぜ同じと言い切れるんですか? その根拠は?

        ↓

    中国のチベット侵攻は、中国が日本のように単一民族国家の幻想を抱いてしまったためです。つまり、同一の民族国家の運動の波及と見ることが可能です。
        ↓

    そういう見方がありうるということは了解しました。



  15. 「日本敗戦後のアジアの共産化の状況を日本の帝国侵略と同じなめらかな現象と見」ることにどのような説得力があるのですか?

        ↓

    ご質問ではないと判断しました。
        ↓

    いえ、質問です。

        ↓

    「説得力がある」と判定する条件はなんでしょうか?morimori_68を納得させることであるなら条件にはなりません。およそ、説得力があるとは主観判断にすぎません。無意味な修辞的なければ、問いかけに帰着します。
        ↓

    記述の丁寧さ、ふくらみ、例示等が記述の説得力を形成します。私には、(少なくともこれまでの)finalventさんの議論からそれを感じることができませんでした。



  16. 小熊英二の議論は発展性がありません」とおっしゃいますが、では、極東ブログさんの議論の発展性はどこにあるのですか?

        ↓

    →ご質問ではないと判断しました。
        ↓

    いえ、質問です。

    私の視点のもつ議論の発展性はアジア域を国家の対立としてではなく、なめらかな近代化の過程とみることで、より広域なアジアの可能性を目指します。中国なら孫文ビルマならアウンサンなど、もともと近代日本に学んだものでした。
        ↓

    それは一つの歴史評価として成り立つと思います。finalventさんがこのテーマで小熊をゆうに凌ぐほどの浩瀚な大著をお書きになることを期待します。

[追記]
以下のコメント欄の展開は次の通りである。

                                                                                                                                                                                      • -

finalvent 2003/12/03 17:28
もうこのあたりで私からの回答は尽きているように思われます。端的なところでは、morimori_68さんの「説得力」を満たす条件ですが、「私には、(少なくともこれまでの)finalventさんの議論からそれを感じることができませんでした。」ということでは、morimori_68さんは神のごとき審判者になっています(しかも無前提に)。morimori_6さんの主観が判定者なのです。私の議論にmorimori_68さんが説得力を感じられないということはまるで質問として成立しないのに関わらずです。morimori_68さんは私の教官なのでしょうか。そのフレームワークが設定されたら私が何を言い得るでしょうか。なにもありません。また、もう一人の審判者は出版部数ということになりますね。いわく「小熊の本は数万冊売れていますが、finalventさんの批評は、失礼ながら数十人か、せいぜい数百人が流し読みしているだけではないでしょうか。もしご自分の批評に自信がおありなら本にして出版されてはいかがでしょうか。」それの基準が正しければ小熊英二より小林よしのりのほうが優れていることになります。また、私のブログのビュー数はいずれ累積で小熊の出版部数を超える可能性もあります。おわかりいただけるかどうか、わからないのですが、その判定に滑稽さを感じないでしょうか。どこに滑稽さがあるのでしょうか。議論の審判者に主観や大衆の数を問う点です。morimori_68さんに訴えたいことは、私は、私の議論に傾聴してくれるたった一人の人がいるだけでもいいと考えることです。morimori_68さんは多くの質問を投げかけられました。しかし、その質問の中心はなんでしょうか。私の議論をより理解しようという態度ではありませんでした。まさか、小熊英二の議論を批評することは許せんという単純なものではないと信じます。しかし、率直に言えば、morimori_68さんは私を大月隆寛のような小熊英二の対立者だと思いこんでいるのではないでしょうか。あるいは、小林よしのりのような民族主義者だと。私の実生活についてはここに書きませんが、私にはこの問題を必然の課題とする実存的な意味があるのです。私の思想は私が生きるために必要になって生み出されたものです。私の存在はこの問題の渦中に投げ出されています。具体的な思想としては、私は、近代化とアジアという問題に絞って、私は国家の対立ではなく、近代化のなめらかな現象という視点を打ち出しました。十分な視点ではありませんが、原理的には小熊が立脚する日本国家の視点が日本の戦後で終わるのに対して、私の視点は現代にまで届きます(中国がチベットを侵略することまで包括します)。この元になる国家論と近代史の問題にmorimori_68さんはどうお考えなのでしょうか。ご自身の考えを肯定的な命題で提示され、それが私の考えとどう違うとして質問されているのでしょうか。morimori_68さんのお考え小熊英二に同一化するのであれ、その論点をまず整理されてはどうでしょうか。そしてその論点を左右する例題を質問されるとよいと思います。琉球の日本化でもよいでしょう。関東軍の問題でもいいでしょう。morimori_68さんに説明されるまでもなく、関東軍の行動は日本国家の行動とみなされます。そんなことは問題ですらありません。そんなことで日本を断罪しても、日本国家が関東軍を統制できないにもかかわらず、日本国家の行動と見なされる関東軍の行動はなぜ生じたのかという問いは放置されたままです。近代日本を断罪したりイデオロギー的に判別したり、また、日本国家を前提とした装置をもってしても、アジア近代史は解明できません。

morimori_68 2003/12/03 23:46
finalventさんのコメントをじっくり読ませていただいてからレスポンスいたします。

                                                                              • -

【この件は翌日(2003年12月3日)どうなったのか】

極東ブログさんがニフティーに移転してしまった。昨日の議論と関係があるのだろうか。はてなはウザい? ウザいのは俺?

↓ その際に付いたコメント



finalvent 2003/12/03 17:36

いえ、昨日からTypePadが簡単に利用できるようになったからというだけです。

                                                                              • -

【さらに翌々日(2003年12月4日)どうなったのか】

極東ブログさんから言及を受ける:


 名前を出すのは失礼かもと思いひかえるが「はてな」で(たぶん)若い人から質問を受けた。そのなかに私の考えの一部がドグマだというのだ。そこでドグマとはと問い返すと、反証可能ではないと答える。反証可能性とはポパーの科学論であって社会学的な命題には適さない、ポパーを学んだ人間ならこの文脈で反証可能性など言い出すわけもない。ポパーなら批判合理性が問題とされるのだ。だが、「社会学的な命題に反証可能性はないですよ」と再回答しても彼は受け入れない。私は溜息をつく。私が彼の教官なら、ポパーウェーバーの訳本でも貸して2000字くらいのレポートを書いてきないさい、と言うところだ。だが、たとえそうしても、問題の本質は伝わらないだろう。社会にも歴史にも反証可能性などないのだ。そもそも生きられた人間社会に再現可能な実験を施しうる者は誰か?それがいるなら、私は思想の矢を放たなくてはならない。矢はドグマか?そんな問題ではない。私が友愛だけを信じて戦いをいどむだけなのだ。もちろん、私は隠者だ。そういう思想の矢を表で投げることはない。だが、その友愛のメッセージがあれば、私のできることはわずかでもそのわずかなことをする。


ウェーバーポパーをあらためて勉強し直すつもりです。何という本を調べたらいいでしょうか。教えてくださいませ。

*追記:finalventさんから文献を紹介していただく。


 ウェーバーの社会科学論で私が読んで面白かったものは、「ウェーバーマルクス」カール・レヴィット (著), 柴田 治三郎 (翻訳)未来社 ; ISBN: 462401006X ; (2000) です。問題意識がもっとも明確になっているためです。他、古典なので既読かもしれませんが2点。「理解社会学のカテゴリー」 岩波文庫 白 209-1 マックス・ウェーバー (著), 林 道義 (翻訳)岩波書店 ; ISBN: 4003420918 ; (1968/01) は社会科学専攻なら必読ですが、レヴィットより問題意識が古い点で難しいかもしれません。国内では、「社会科学の方法―ヴェーバーマルクス岩波新書 大塚 久雄 (著)出版社: 岩波書店 ; ISBN: 4004110629 ; (1966/09) 。ヴェーバーは日本ではよく研究されているので図書館にいけばもっと読み進めることができます。こういうと傲慢に聞こえるかもしれませんが、ヴェーバーの神髄は宗教社会学の全貌が見渡せるときです。ヴェーバーは学べば学ぶだけ、学問の喜びがあります。


 ポパーについては、「ポパーの科学論と社会論」関 雅美 (著)勁草書房 ; ISBN: 4326152389 ; (1990/08) が全体像とらえるうえで簡素に読みやすくまとまっています。他、「科学的発見の論理」「歴史主義の貧困」「開かれた社会とその敵」が古典です。図書館にいけばあるでしょう。が、最近魅力的な本も各種出版されているのでそちらからアプローチしてもいいのかもしれません。

 この二人は自伝的な著作も面白いものです。ポパーなら「果てしなき探求―知的自伝」、ヴェーバーのほうは自伝はないので評伝のようなものになるでしょうか。

感謝。