市野川容孝『ヒューマニティーズ社会学』(岩波書店、2012年)の書評
一言で言えば本書は、タイムマシンに乗って、大学二回生だった自分に差し出してあげたい本である。
その頃、社会学の目的とは何かとある先生に聞きに行ったことがある。すると彼は、
「マルクスはですね、人はみな平等であるべきなどとは一言も言っていないのですよ。」
と言った。この人はいったい何を言っているのだろう。
そのあと、社会学の意図するところは要するに社会的資源の最適配分にあり…などと、授業で述べた説明を滔々と繰り返して研究室に戻っていった。その中には彼に忠実な学生たちがいたようだった。私はしばらく立ちつくし、立ち去るしかなかった。今思えば、向こうにとっては、チンピラ学生を煙に巻くなどお茶の子さいさいという感じだったのだろう。(注)
本書は、四半世紀前の私の問いに正面から答えるものである。すなわち社会学の目的は社会の役に立つことである。
本書を要約すると、
(1) まず社会学という概念を始めて作ったオーギュスト・コントの画期性にふれ、
(2) ついでフィルヒョウらの医療社会学―じつは、社会の病理を治すという含意を持った、社会学の源流であったかも知れないもの―を説き、
(3) さらにスペンサーらの、自由放任・弱肉強食の社会を肯定する粗野な社会学にふれ、
(4) そしてマックス・ウェーバー以降の、社会のあり方を自覚的に問い直す「社会学的リベラリズム」の成立で締めくくる
ということになる。
やや、はしょりすぎた乱暴なまとめになってしまった。本書はこのまとめの何十倍も面白く意義深いんだけれども。
はじめの数ページは取っつきにくいかもしれない。『資本論』ではないが、「何事もはじめが難しい」。実を言えば、私もその数ページが引っかかって、最近まで積ん読になっていた。しかし、そのトンネルを抜けると豊饒な大地が広がっているのだ。
著者はフーコーの方法と成果を自家薬籠中のものにしている。本に読まれるのではなく本を読むというのはこういうことだと、身をもって示している。
もっと即物的なメリットなどもいくつか挙げておこう。
文献案内が充実している。親切なことに、洋書についても、著者名の綴りからインターネット検索等を通じて原書にたどり着けるようになっている。
値段が千円ちょっとと安い。飲みに行く分を一回辛抱すれば買える金額である。
ともあれ、本書を読む前と後とでは、社会観が確実に変わる。これは大きなメリットであるが、頭の固い人にとってはむしろデメリットかも知れない。
これで索引があればもっと良かった。おそらく編集上の都合でやむを得なかったのだろう。
以上、『ヒューマニティーズ社会学』を全力で推します。これを社会学関係者だけのものにしておくのはもったいない限りだと思います。
(注)こういうのは、思想・信条や学説より以前に、人として馬が合う・合わないの問題かも知れない。そのあたりのことは、紆余曲折を経た後、わが師匠、伊藤守先生との出会いで明らかとなる。彼は学生と全力で向き合う人だったし、おそらく今もそうである。このへんのことは、そのうち披露する機会もあろうからそちらに譲る。