靖国神社をどうとらえるか

 私は靖国神社を全否定するつもりはない。焼き払い、ぶっつぶして駐車場にしてしまえとは言わない。それをたとえば対馬丸で身内を失った人の前で言えるか? 言えないのである。

 靖国神社は、形式上は、一宗教法人でしかないので、誰を祀ろうと祀るまいと勝手ということになる。

 ただ、そこに首相が参りに行くとなると話は別である。A級戦犯を神として、「昭和殉難者」として祀っているからだ。日本はサンフランシスコ講和条約を受けいれて国際社会に復帰したのだから、国際的には極東軍事裁判の否認という意味を持つことになる。安倍晋三靖国神社参拝は、パフォーマンスでしかない。本当に崇敬の念なり何なりがあるのならば、極秘裏にお忍びで行くだろう。

 靖国神社が国民を戦争に送り込むイデオロギー装置の役割を果たしたことは、歴史的に明白である。靖国神社は、戦争神社である。日本が集団的自衛権を行使することになれば、自衛隊員の犠牲者も出るだろう。その時靖国神社は、再び、おそるべき役割を果たすことになりかねないのである。

 なお靖国神社の問題を扱った本として、三土修平靖国問題の原点』(日本評論社、増訂版2013年)の評判が高い。私も(旧版をだが)読んで、丁寧な議論がされていると思った。いま手元になく、増訂版も読んでいないので、具体的にどうこうという引用ができない。気が向いたら、今度ご紹介します。

(参考リンク)対馬丸についてhttp://www.tsushimamaru.or.jp/jp/about/about1.html