森毅『学校とテスト』
森毅『学校とテスト』(朝日選書、1977年)は好エッセイ集である。
ついこの間物故した著者は軽妙で洒脱なエッセイを書く数学者として知られている。その通りだが、人と社会についての深い洞察がその根底にあるからこそのものである。
なんか数学をやる気になったよ!
さて、本書にはほとんど全編にわたって名言が飛び出している感がある。
著者は「たかが試験で」というスタンスをよしとする。励ましにも戒めにもなるというのだ。この場合の励ましとは、失敗しても力を落とすなということで、戒めとは、成功しても調子に乗るなということだ。なるほど。
以下、引用は引用符で明示する。
“小学校でデキる子が高校でデキる子と限らないというのは、「デキる」が海面上だけで測られているから”だね。
“〈アホラシイけどヤッテミルんだ〉というのは…優秀な資質” “人間文化…は、概してそうした心情のもとに発達してきた”だね。
“大学〔の定期テスト〕でぼくは、他人の答案を見ることを奨励することさえある。わからんかったら、わかってそうな人…を探して教われ、…わかるまで教われ、なんて言って回ることもある” なかなか思いつかない柔軟な発想である。
テストは本来アソビ。著者はここで、ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』の参照を求めている。
“入試というものは、一に要領、二に度胸、三四がなくて五に運次第”
“良質のテストほど、…運動量を精密に測定すれば位置のユラギが生ずるように、点数のユラギが必然化する”
“「いい社会生活」を送るのに、「いい大学」を出る必要はない。…階層社会における統計的現象としては、「いい大学」の出身者が多いというだけのこと” “「いい大学」を出たからといってなにも未来を保障されたわけではない” “雨の日に蛙が鳴くからといって、蛙が雨雲を呼び寄せたりしないようなものだ。”
“自分が自分として成長することこそが教育”
“〈標準〉というものは、本来的に批判さるべきものとしてあるべき”森先生らしい素晴らしい見識である。
例えば、教室に教科書を数種類そろえるといったことについて“いいことだからこっそりと、自分のところだけでやるというのがゲリラ的発想である。それなら、すぐにもできる”
“科学をみずから獲得していくことこそが、人間性を回復する” “デカルト流にいうと、何びとといえども、かわりにわかってくれる者はいないので、自分でわかるよりない”
(著者の授業は)“ヨミキリを原則としている。…ヨミキリ原則というだけで、ずいぶん〔授業に対する〕考え方が変わる。”
“本を読むことは、知識をうるためというより…「自分のあたま」を変えるため”
“妙な「教師根性」…よりは、自分が生徒であったときのサボリのココロを復元するほうが、ずっとよいことだ。”だな。
“経験や知識の多い人ほど「アリノママにまちがう」勇気を持っている傾向は事実である”
“一年間で一回だけでよいから、授業をとおして研究をしてみること” “〈研究〉というのは、たいてい「勉強不足」で行われるものである”
(進学高の場合)“学習目的といったものが、入試といった擬似目的に変えられて、それゆえに強力な等質化を強制している”
版元はこういう本をちゃんと流通させたほうがいいと思う。今となっては、時代背景等の解説が必要な箇所もあるけれども…。