興味深いが微妙なところもある―竹内洋『革新幻想の戦後史』

 竹内洋『革新幻想の戦後史』(中央公論新社、2011年)を読んだ。

 雑誌(『諸君』。休刊後は『正論』)連載中から、私は興味深く読んでいた。断片的なエピソードを単行本にするに当たってどうまとめるのだろうという点も興味深かったのだが、そこを著者は「自分自身をインフォーマントとする」質的調査として位置づけている。面白い試みだと思った。

 雑誌連載中にはおよそ次のような記述があった。「社会学屋の中には大物主義とも言うべきものがあり、自分はウェーバー屋だデュルケーム屋だと、研究対象がビッグネームであればあるほど偉いという風潮があった。自分はアメリカの中堅どころの労働社会学者で論文を書いていたのだが、仲間内から誰だそれはと怪訝な顔をされ…」といったものだった。これは単行本にはなっていないようである。掘り下げれば面白いテーマだろうと思う。

 教育学者DISについて。著者は、「かまえ」などの和語をキータームとして議論をする風潮をDISっている。しかし、たとえばハイデガーにしても日常語をキータームとして哲学を組み立てており(翻訳の過程で日常と縁遠い「専門用語」化が忍び込む)、むしろ望ましい傾向とも言える。わが国の社会科学・人文科学こそ、庶民の言葉と異なるジャーゴンを駆使しているという問題があると思う。(教育学における個々の議論じたいについては、批判的に検討される余地もあろうかとは思う。)
 「学部の争い」はまことに不毛である。社会学という学問じたいが、例えば経済学のような「確固とした」「洗練された」分野から上から目線で槍玉に挙げられることもあるようだが、そうした「江戸の敵」を教育学という「長崎」で取る感がぬぐえないのである。

 著者が絶賛している、長浜功『増補版 教育の戦争責任』(三一書房1984年)*1を読んだ。勇気をふるった貴重な仕事だと思った。(ただひとつ気になったのは、開講に当たって戦争協力への悔恨を語ることを常としていた宗像誠也に厳しすぎではないかという点だった。)

補足。大物社会学者云々については、同著者の清水幾太郎論に出ていた。

*1:原著のほうは大原新生社から1979年に出ている。